ライブチャットを始めたきっかけや鬱人生のお話【暗い自己紹介】
プロフィールページをご覧頂きありがとうございます。ライブチャット研究所、所長でございます。私のプロフィールにご興味がある方はほぼ居ないと思いますが、そこそこ破天荒というか鬱な?そんな人生を送ってきましたのでダラダラとお話させて頂きます。結構暗い話も多いので少しだけ覚悟してご覧頂いた方が良いかもしれません。
まず私は地方に住む1981年産まれのおじさんでございます。小学校では学級員長を務めたり、子供会の会長をやったりと中学あたりまでは優等生で通ってきた私ですが、高校あたりからおかしくなり始めます。なんと高校2年生の時にテストの成績がクラスでビリ2になってしまったのです。ちなみにビリ1はテストを風邪で欠席していたので、実質私がナンバー1のビリです。
女教師:『●●君、進路はどうするの?』
私:『大学ならどこでも良いです』
女教師:『●●君・・・大学は・・・いけないよ?』
私:『・・・おいコラ犯すぞ』※これは言ってません
と、絶望の淵に立たされて顔面蒼白になったのを今でも覚えています。そして、なぜか東京の大学のパンフレットを見て『うおっ!なんだこの近代的なフォルムの大学は!?秘密結社か!?』と大興奮をし、急に大学受験を目指すようになりました。
その大学のみに絞って赤本を購入し、通学の自転車に乗りながらも勉強し、電車の中でも勉強し、家庭科の授業中にもこっそり勉強して、バレて怒られました。(クッションなんか作ってる暇あるかボケ)
高校3年生の1年間は無遅刻無欠席で、学校で自由な席を使って良い授業の時はかならず一番前のド真ん中に座って、取りつかれたように勉強した結果、なんとか希望の大学に入学する事が出来ました。ちなみに、私以外にも5人くらい受験していて、中にはクラス1位の男子も居たのですが、なぜかみんな落ちて私だけが受かりました。赤本って凄いっすね。
さて、大学に受かったは良いものの受験で全力を使い果たしてしまった私は・・・1年生をいきなり留年!昔からテニスをやっていて、大学でもテニスサークルというか体育会という部活みたいなやつに入ったのですが、そこで出会った先輩が、まぁ悪いやつでして。。。私が授業中でもお構いなしにコートに呼び出してくる始末。断りゃ良いものをやっぱり授業よりテニスのが面白いという事で、出席日数が全然足りずにしっかりと留年しました。
そもそも、私にとってはレベルの高い大学に、赤本使って無理やり入学してしまったので、本来の私のレベルには合わないハイレベルな大学だったんです。友達も数人居ましたが、明らかに私よりも頭のデキが違う。『あぁこれがIQの差ってやつだ』と痛感させられましたね。わからない問題を友達に聞いても、彼らが何を言っているのか理解する事が出来ない。むしろ彼らは授業というより趣味で勉強をしているようにも見える。そんなわけわからんバケモンと、高校でクラスビリを受賞した私とでは根本的な人間の質が違ったように思えました。
まぁ未だに時々会って、仲良くはやってるんですけどね。
で、その後も2年生になってからもう1度留年をして、父親に『もう勘弁してくれ』と言われ退学しました。私はヘタレなので自分で学費払わず親のスネかじりまくってたのに、大学費用は全部パーです。私立大学だからかなり高額だったろうに。思い出すと胃が痛い。大学に行って学んだ事はブラインドタッチのタイピングスピード。それだけです。青春すらなかったなぁ。女の子と会話した記憶がマジで1つもない。そもそも理系の大学だったから女の子少なかったんですよ。(言い訳)
2年生の時はそこそこ授業にも出ていたんですが、必修科目っていう、これをクリアしないと3年生になれないよっていう授業がクリアできずに留年する事になりました。なんだっけ、電子解析理論?(多分違う)とかいうわけわからんやつで、数学をもっと難しくしたようなやつです。
例題:◎△■*=2(*>#) これが成り立つ事を証明せよ。
みたいな、もうほとんど見た事が無い記号ばっかりの、この問題作ったやつ頭イカれてんだろって思っちゃうやつでした。テスト中には辞書くらい分厚い教科書を持ち込んでも良いという良心的な配慮があったものの、その教科書に書かれている事自体がまったくチンプンカンプンで、それならタウンページの方がまだ役に立つと思えるくらい教科書がガラクタでしかありませんでした。
この授業の先生に『この授業が取れないと留年なんです!なんとかお願いします!』と頭を下げて直談判しに行きましたが、出席日数が少ないということもあって『情状酌量の余地はなし』と、あっさりと切り捨てられて見事な留年を果たすのでした。(両親は留年費用を用意するのが地獄の日々だったそうです)
そして退学をした後は、そのまま東京でアルバイトをしながら4年間生活をしました。だってせっかく東京にきたのにただ時間をつぶして帰ったんじゃ恰好悪過ぎじゃないですか。『仕送りはいらないからこっちで頑張らせてくれ』と親を説得しました。(もともとは仕送りを毎月10マン貰ってましたクズ野郎です)
アルバイトはコンビニを中心にブックオフやカラオケ店など点々としました。比較的コンビニは良かったですが、ブックオフは本を綺麗に研磨する謎の機械に指を挟まれて大量出血をしてトラウマになって、バックレて辞めました。店長が家まで押しかけてきましたが居留守で乗り切ってやりました。カラオケ店は、その時一緒に働いてた好きな女の子が店長に恋をしていて、その恋の後押しをする為に店長を呼び出したら実は既婚者で、なんか話がややこしくなってきてバイトをトンズラしました。
唯一の特技とも言えるテニスの腕前を活かして、テニススクールの先生を目指しアルバイトをしてみました。しかし、朝5時から朝練習や準備をしつつ、昼間はスクール、そして夜も12時まで練習と片付け。地獄のような日々でした。それでいてお給料は月収5万円くらい。『あ、これ死ぬやつだ』と思いストレスを貯め込んでいて、ある時、夜の練習中に先輩コーチの発言にブチキレてラケットをコートに叩きつけてブチ折って帰ってきました。その後1番偉いコーチが家に来ましたが、もちろん居留守をぶちかましてやりました。
いやー、ほんと私ってすぐバックレるなぁ。(みんなはマネしたらアカンで!)
もう自分が出来る事も無く、やりたいことも無くなってきたところで、幸か不幸か父親から電話がかかってきました。『もう・・・そろそろ良いだろ』とさとされ、東京を離れる事になりました。軽トラで迎えに来てくれて、家具を運び出して地元へ向かいました。向かう途中の高速道路で涙がこぼれたのを覚えています。俺って無力だな。無能だな。と自分を責めるクセが付き始めたのがこの頃です。
さて、地元に帰ってきた私はすぐさまハローワークへ行き、中途採用の会社を探しました。こんなしょうもない経歴の輩は大企業なんかで働けるはずがないと思い、小さい会社を狙って探しました。従業員数4人のアットホームな会社に入社した私は案の定なんの力にもなれませんでした。会計ソフトみたいなやつを販売したり、ホームページを作ったり、特殊なソフトを作ったりする、要はパソコン周りの何でも屋さんみたいな会社で、私は営業を任されていました。飛び込み営業だったのですが、私にはお客さんと会話する能力は無く、門税払いを食らいまくる毎日。プログラミングから何から全く理解できなかった私に、人を説得する力なぞあろうはずもなく、朝、昼、夕と社長に毎日怒られる日々を送り、8か月くらい経っていよいよ限界となりました。社長に頭を下げて『辞めさせて下さい』と涙しました。『ゆっくり覚えれば良いから』とスタッフ全員から説得されましたが、1度壊れてしまった心は元には戻りませんでした。
ほんと、メンタルがめちゃくちゃ弱いんです。私。
とは言ってもいつまでもヘコんでられない訳で。次は従業員1000人くらいのそこそこ大きな健康食品会社に入社しました。ホームページの運営管理をする仕事という事で、私はそんなスキルを一切持ち合わせていませんでしたが『今は何も出来ませんが、努力する自信はあります!』と面接で人事担当に言い放ち、なぜか採用されました。当時の履歴書が奇跡的に残っていて、そこに貼ってある写真を見ると、ウニのような針頭にセットされていました。これまでワックスとかスプレーとかの整髪料を知らず一切使って来なかったのが、急にその知識を詰め込んで変な方向に行ってしまったという黒歴史を、今でもこの書類で確認する事が出来ます。
今思えばこの時代が一番楽しかったですね。配属された部署には5人ほどいましたが、いずれも私より年下で、私が一番年上だけど仕事的には後輩という微妙な位置づけだったのですが、なぜか仲間とは仲良くやれました。まぁ、お給料は全然上がらんかったですけどね。ただ、ホームページの管理が楽し過ぎて、知識をガンガン吸収していっている感じは心地よかったです。やっぱり自分が楽しいと思える事じゃないと人は覚えないっすよね。苦手な事とかやりたくない事をやっている時の経験値が1だとすると、好きな事をやっている時の経験値は10くらいあっても良いかもしれません。成長速度が10倍違うと考えるとめちゃくちゃ大きいですよね。
私以外のスタッフはみんな同じ専門学校に通っていて、ホームページ関連のスキルは高かったのですが、私は3ヶ月程度でかなりスキルを身につけて、他のスタッフとあまり変わらないくらいの知識量になったんじゃないかと自負しております。まぁ、なかには勝てない奴も居ましたけどね。
そうそう。ライブチャットを始めたのも丁度このあたりだったと思います。これまで彼女という彼女が居なかった私はなんとか会話力を上げて面白い人間になろうと、ライブチャットを使ってトーク力を磨き始めました。昔、自分が好きだった女の子が私よりもブサイクな男子とお付き合いをして取られてしまって悔しい思いをしたので、自分の弱点を補おうと努力しました。
おかげでトーク力が上がってセフレが出来たり、数年後ですけどライブチャット経由で彼女が出来たりもしました。
とまぁ、そんなこんなで4年経ち、テニスサークルで知り合った1歳年上の可愛い女の子と結婚をして順風満帆な生活を送っておりました。しかし、妻は結構なS気質で、逆に私はM気質という事で、結婚して数ヶ月で妻にビクビクする日々を送る事になるのでした。何しろ、ライブチャットで会話スキルを強引に上げて口説き落としただけなので、それ以外の新婚生活で必要な生活スキルや金銭面などの余裕は何も持っていなかったんです。妻がイライラするのも仕方のない事です。
共働きだった私たちは、先に家に帰ってきた方が晩御飯を作るという暗黙のルールがあったので、先に帰った私はヨシケイで送られてきた材料とレシピを元に慣れない料理を作っていました。30分ほどすると妻が帰宅してドタバタと怒涛の勢いで部屋に入ってくるなり、窓を開けて外の洗濯物を取り込み始めたのです。『何やってんの!?』と切れる彼女。何のことかサッパリわからない私は茫然としていました。『雨降ってるんだから取り込むでしょ!?』と苛立ちマックス。何やら洗濯物が雨で濡れていたようです。料理をしていて外の天気はわからなかったのですが、言い訳をする度胸もなく、ひたすら謝る私。そんな妻の苛立ちを受け止める日々が続いて、気が付くと私はこの家に居づらさを感じ始めるようになりました。
お金が無かったので駐車場を借りるお金もなく、結婚する時に自分の車を売り払い、通勤は1万円のママちゃり。会社までは10分くらいで行けるのでそこまで苦痛ではなく、会社から帰ってくる時にローソンで買う苺のジュースが毎日の唯一の贅沢でした。自転車に乗りながら飲み干して、精神力をチャージしてから地獄の家に戻ってくる生活です。
お金が無いのにも関わらず立派な結婚式をあげるべく、私のお小遣いは1万円。これは携帯代やお弁当代も全て含めての金額です。私に貯金が無かったのが悪いので耐えるしかありませんでした。
さらに、ここで人事異動も加わります。なぜか私の評判が会社で良かったらしく、本社の方に配属になったのです。いわばキャリア組のような感じにランクアップしたわけです。最初はもちろん嬉しかったですが、ここがまた地獄でして。今まで数百万とか数千万程度の売り上げを管理していたのが、いきなり億単位の話になって、しかも今までのスキルがほとんど活かせない、というか規模が大きくなり過ぎて何をしたらいいのか全くわからない状態に陥りました。前回の職場を思い出す無力さを感じました。何も出来ない自分にもイライラしますし、何より、隣にある会長室からは毎日のように『おまえぇ!たたっ切るぞ!!』と怒号が鳴り響き、私が怒られていたわけではないのですが、なぜかメンタルを徐々に削られていきました。きっと私もいつかやられるんだろうなと死刑囚にでもなったかのような気分でした。
しかもこれだけ苦しい仕事なのに、お給料は逆に20万円から15万円ほどに下がってしまうという事態。残業代がつかなくなったので一気に苦しくなりました。このことを妻に伝えると、ガックリと肩を落としておりました。新婚生活早々にツライ思いをさせたものです。私の責任ではありますが、ますます私は家の居心地の悪さを強めていきました。
会社は地獄、家に帰っても地獄、唯一の楽しみは10分間の通勤時間。きっとこんな生活でも私なら耐えられる。私に能力が無いから悪いんだ、そう思い込んで耐え凌ぐ生活を送ってきました。時には家に帰りたくなくて雨が降りしきる中、近くの公園の屋根付き滑り台で、PSP(プレイステーションポータブル)を持ってモンハンをやっていたりもしました。1時間程すると『どこで何やってんだ!?』と妻からお怒りのメールが来て絶望しながらも慌てて帰ったもんです。心安らぐ時間が無い・・・ギリギリの精神状況を維持していました。
しかし、人間はそんな強い生き物ではありません。必ずいつか限界がきます。
私は新しい部署に配属されて半年で限界を迎える事となりました。
何もかもが嫌になってしまった私は、『ごめんなさい』と書置きを残して翌日家出をしました。しかし、近くのホテルに泊まっていたところ、私の父が押しかけてきて結局は家に連れ戻されました。なぜバレたのかは未だに謎ですが、家出は未遂に終わりました。
このあたりからは正直なところ自分の記憶が定かではない部分があります。鬱病だろうなと思っていたので精神科の病院にも行ってみました。最初に行った病院では『そんなのは鬱とは言わない。甘ったれてるだけだ。頑張りな。』と突っぱねるように言われて絶望と怒りに満ち溢れました。何もないのに勝手に涙が出てくる。そんな異常事態が起こっているのに、鬱病ではないというのだ。
そして、かすかな希望をもって別の病院に行くと『無理しなくて良いよ。』とやっと優しい言葉をかけて貰えました。そこで鬱病認定を貰ったのです。
それを妻にも伝えて会社をしばらく休む事になりました。正直会社は辞めるつもりで居ました。あんなところに戻ったら確実に鬱が悪化してしまうと思いました。しかし、結婚式はこの数日後に予定されており、来賓には上司も参列する事になっていてスピーチまで頼んでいましたので、私と妻の2人で上司の家に菓子折りを持って行き、『もう僕の上司では無くなってしまいましたが、なんとか参列して頂けませんでしょうか?』と無茶苦茶なお願いをしに行きました。
とても良い上司だったので結婚式は滞りなく行われて、『皆さんのおかげで結婚式ができました』と泣きながら最後の挨拶をした記憶があります。
それから2週間ほど休暇を頂いて、気分が少し良くなってきたところで、社長から連絡がありました。社長自らが連絡をしてくるなんて非常に珍しい事で、不思議に思いながらも社長室へ赴きました。
社長は、『辞めるなんて言わないでゆっくり続けてみないか?』と優しく説得をしてくれました。『自分を許せるのは自分だけだぞ』と今でも胸に響いている名言も頂きました。部署を変更して健康食品を作る工場で働いてみないか?と言われて、その提案を飲む事にしました。地獄の本社よりも工場の方がきっと精神的に楽なはずだと希望を持っていました。
さて、工場での仕事はというと、俗にいうオペレーターというポジションで、アルバイトやパートの女性に指示をしてラインを動かし、健康食品を製造していくという内容です。どちらかというと、袋に入れたり瓶詰めしたりするパッケージングの部門でした。ほとんどは機械で動いているので微妙な調整や壊れた時の対応なども覚える必要がありました。ぶっちゃけ私は機械音痴で、スパナとかレンチとか言われてもピンと来ないタイプの人間でしたので、覚えるのには非常に苦労しました。というかぶっちゃけ覚えられていません。
ただ、そこの問題よりも人間関係の方が圧倒的に厳しい世界でした。女性社会というのは恐ろしいものです。私は最初から舐められていて、私の指示を無視する人が沢山いました。何を悪い事したわけでもないのにいきなり無視するなんて厳し過ぎませんか?確かに役立たずだとは思いますが、誰しも最初は素人です。しかし、そんな言い訳が通用する場所ではなく、孤独地獄という言葉が相応しい職場でした。
それでも必死にもがきました。今度仕事を辞めたらさすがに妻に見放される。なによりこんな何度も挫折する自分なんて嫌だ!俺はやれる!という強引な自己暗示をかけて無理やり奮い立たせていました。それから3ヶ月ほど経った時、私の心は再びプッツリと音を立てて千切れてしまったのです。
再び鬱病になってしまい、会社をバックレてしまった私。以前には家出までして前科もあります。今回こそほ殺されるのを覚悟で妻に説明をすると『大丈夫。私がなんとかするから』と柄にもなく瞳を潤ませて優しい言葉かけてくれました。あぁ、やっぱり結婚して正解だったんだ、無理しなくて良いんだと、とても救われた気持ちになりました。
が、そんな気持ちが続いたのはほんの半日。
翌日からニートになった私は朝から夕方までずっと布団の中でくるまっていました。家に居るのだからせめて晩御飯くらいは作ろうと、重い腰を上げようとしたのですが、なぜか全く立ち上がれる気がしませんでした。『なぜ立ち上がれないのか?』そう考える頭すら働かないくらいに、頭が真っ白になっている事に気が付きました。諦めて妻の帰りを待つと、元気の無い低い声で『ただいまぁ』と聞こえてきました。
『ごめん、ご飯作れなかった』と言うと、『あぁ・・・そうなんだ・・・』とため息交じりの返答が帰ってきました。あの時の、彼女の元気が無い丸くなった背中は今でも鮮明に覚えています。
私は急に焦り始めました。頭が全く働かないはずなのに、自分が愛した妻を苦しめている事には敏感に気付いてしまったのです。エヴァンゲリオンで有名な『逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。』という脳内を駆け巡る感覚。しかしその言葉は違い『ここに居てはダメだ。』という物に変わっていました。
私がここに居る事で妻に迷惑がかかる。私が居なければ彼女はもっと楽に自由に生きていける。そう思い込んだ私は、その晩ギンギンに目が冴えわたり一睡も出来ませんでした。そして、翌朝、妻が会社に行くやいなや、私もスーツケースに最低限の荷物を詰め込んで、家を飛び出しました。今度は離婚届を自分の欄だけ記入した状態でテーブルに置き、今生の別れのつもりで家を出ました。今思えばむしろ全てを捨てたかっただけなのかもしれません。自分の為に妻を犠牲にしただけだったのかもしれません。
2人の共通の銀行口座にあった100万円のうち半分の50万円を下ろして予めパソコンで調べてあった沖縄県の宮古島へ向かいました。今回は向かっている途中に絶対に父に見つからないようにと、近くの空港を利用せずに鈍行で東京まで行って、空港近くの東横INというホテルが満室だったので、たまたま見つけたカラオケボックスで一泊したあと、羽田空港?成田空港?どっちかわかりませんがそこから宮古島へ行きました。
宮古島に降り立つと、まず空港内にあるホテルのパンフレットを手に取りました。予め調べてあったペンションのパンフレットもそこにあったので、それを貰ってひとまず電話をかけてみる事にしました。迎えの車を出してくれるという事で10分ほど待っていると、私と同い年くらいの若い男性がハイエースのような大きめなシルバーの車で迎えに来てくれました。
話をすると彼も東京から出て来た人間だという事がわかりました。ペンションで住み込みで働いているとの事。月収5万円だけど家賃や光熱費、朝ごはんなどはタダで生活しているという情報を得ました。宮古島に来た経緯を私が話すと、『●●ちゃんも住み込みでやってみれば?』と提案してくれましたが、とりあえずは働く気力などはなかったので、ニートを続ける事にしました。(会って早々にちゃん付けってコイツw)
ペンションに到着するとオーナーさんが出てきてくれて、料金の交渉の話になりました。長期利用という事で1泊1500円くらいにしてもらったと思います。しかも自転車を自由に使って良いというオマケ付きです。3~4人くらいが6畳間くらいの狭い空間で素泊まりするという、決して居心地のいい空間とは言えませんでしたが、元居たあの地獄に比べたら天国のように感じました。
冬の1月くらいに行ったのですが、昼間なら半袖でも十分なくらいに暖かく、窓や扉は基本的に開けっ放しで、防犯対策の防寒対策もあったもんじゃありません。私は虫が苦手なので窓は閉めて欲しかったんですが、メンタルが落ち込んでる時って虫の存在もあまり気にならなくなっていた気がします。さすがにトイレの隙間に居た真っ白なトカゲには驚いてケツが浮きましたけどね。カップルでくつろいでいましたよ。
なかなかにアドベンチャーなペンションではありましたが、たまたま歳の近いスタッフも居て楽しかったです。彼とはほんの数日で、というより初日からとても意気投合をして仲良くなりました。今でも時々連絡をくれますが、現在も宮古島に居てパイナップル?マンゴーとかを作ってるとか。なにやら彼女がお金持ちらしくて、悠々自適に暮らしているそうです。(あのやろー)
普段は彼は仕事があったので、私は昼間は散歩をしていました。缶酎ハイを右手に、おつまみのカルパスを左手に、行く当てもなくダラダラと散歩をし続けていました。時には海岸で海を見ながら5時間くらい酒を飲み続けたりもしました。オフシーズンなので、私以外は海に近づきません。あまりガチャガチャしているのも嫌ですけど、完全に1人ってのも寂しいもんです。
時が経つにつれて、徐々に考える力を取り戻し始める私。そもそもなぜ宮古島に来たのか?自殺をするつもりでもない、人生をやり直そうとしているのかというとそうでもない。成り行き任せで貯金を食いつぶすまでダラダラ生きて、最悪このまま死んでも仕方がない。そのくらいの感覚だったように思います。あろう事かパチンコ屋に行って、少ない財産を5万円ほど失ってさらなる絶望感を上乗せしたりもしました。
そして時々、残してきた両親や妻の事を思い出すようになりました。元気にやってるかな?と自分から飛び出しておいて無責任な事を考えていました。元気なはずがないのに。
しびれを切らせた私は母親にメールで『元気にやってる?』と連絡をしました。その内容はあまり覚えていませんが、今となっては本当に中途半端な行動だなと思います。助けて欲しいのかなんなのか。自分の行動に全く説明がつきませんでした。妻への謝罪の気持ちも語ったような気がします。謝罪は面と向かって言わなきゃいけないし、帰って来ないでただ謝られても意味わかりませんよね。自分が犯した罪への罪悪感を少しでも緩和しようと足掻いた格好悪い行動だったと思います。元から恰好の良い人間ではありませんでしたが、鬱病の時は特に支離滅裂な行動をしてしまうようです。
そんなこんなで無駄に1ヶ月が経過しました。沖縄に来る人は何かしら心に傷を負っている人が多いようで、ペンションに泊まりに来る人も、どこか虚ろな表情の方が多かったように思います。でも、逆に同じ境遇という事もあって意気投合が出来て、見ず知らずの知り合ったばかりのおじさん達と散歩したりゲームしたりしていました。
時々、ペンションのオーナーから誘われて畑につれていって貰いました。水の上げ方や耕し方などを教わって『住み込みで働いてみるか?』と提案してもらいました。なんか上手く利用されているだけな気もしましたが、特に何を目指すわけでもなく、日々のんびりと過ごしていくっていうのも悪くは無いのかなという気持ちが芽生えてきました。
しかし、そんな日々は長くは続きませんでした。
ある日の夜。仲の良い住み込みの男性と、ペンション1階のリビングでお酒を飲みながら雑誌を読んでいました。雑誌の最後のページにはよくあるエッチなお店の紹介があり、女の子が20人くらい並んで掲載されていました。『好みの子を、せーので指さそうぜ』という今どきの小学生でもやらなそうな遊びをやり始めました。『え~!そっち!?そっち系?』『いやぁ!確かにその子も良いけどさぁ!』などと、沖縄に来て1番のテンションで盛り上がっていました。
そんな時です。私の目の前には見た事がある人物が立っていました。一瞬目を疑いましたが、間違いなく私のテニスサークルの友達、いや親友とも、兄とも言える存在の人物です。『よぉ♪』と右手を軽く上げていつもの笑顔で立っている彼。スーパーハイテンションだった私ですが、一瞬にしてブレーカーが落ちたかのようにフリーズしてしまいました。何が起こっているんだ?考えたくても頭が真っ白でぶっとんでいる。ほんの数秒の事だったと思いますが私には非常に長い時間に感じました。
私がフリーズしていると、後ろから父親の姿が出てきました。眉を八の字にしながら安堵の表情を浮かべて私を見ていました。父は私が小さい頃は非常に厳しく、体罰は当たり前に行われていて、私にとっては絶対に怒らせてはいけない人でした。今回も確実に怒られる、いや、殺されるとまで思っていたのですが、実際はその真逆で、未だかつてない優しい表情で私をペンションから連れ去りました。
なぜ、私が宮古島に居るという事がわかったかというと、私が家出前にパソコンで下調べをした情報を見たからです。ゴミ箱に捨ててきたのですが、そのゴミ箱の中身を空にする事を忘れていました。普段はそこそこ用意周到な私なのですが、鬱病の時はグダグダなもんです。
迎えに来てくれた父や友達はとても優しかったです。なぜ沖縄に行ったのか?なぜ離婚届けを置いてきたのか?聞きたいことは山ほどあるはずなのに、『よし、今日は遅いから寝よう』とか翌日になっても『とりあえず飯でも食うか!お前沖縄に来て1ヶ月くらい経つんだからちょっとは詳しいだろ!?うまい飯教えろよ』と大切な事は何も聞こうとせずに数日間ただひたすら傍に居てくれました。
あ、思い出しただけでも涙出そうです。
そしてある日の夜、父は自分が今まで生きてきて失敗した事を話してくれました。『お母さんには内緒な?』と照れ笑いを浮かべながらも真剣な眼差しで私に語ってくれました。詳しい話はさすがにここでは書けませんが、地味に悪い事を沢山してきてるなという印象でした。なかなかに最低な人です。(笑)
これまで私は父が完璧な人間だと思っていました。苦しい事も苦しいと言わずに頑張って、大切な人にもその苦しみを伝えずに自分だけで我慢して堪えて、自分を愛してくれる全ての人を勝手に守っていく。そういう感じの凄い人だと思っていました。怖ったですがそんな父を尊敬もしていました。だから私はそんな父を目指して人に弱音を言う事が苦手で、自分で抱え込むクセが付いていたのです。でも私にはそれを抱え込むだけの器がありませんでしたので、プッツンして鬱病になってしまったわけです。
でも、私が思い描いていた完璧な父親像は偽物だったという事を教えて貰いました。みんなコッソリと自分のストレスを発散してるし、かっこ悪い事だってやってる。隠してるからバレてないだけで、本当はみんな大した人間じゃない。父親を含めて、人間なんてそんな凄いもんじゃない。凄いなって思う反面どこかに弱いところが必ずある。なんでもかんでも出来る人間なんてこの世に居ないんだ。
父親のカミングアウトのおかげで、そう思えるようになりました。私の中にある強烈な劣等感が薄まっていくのを感じました。
何か今まで勝手に背負っていたものが一気に無くなったような気がしました。今まで自分の弱い部分を無理に強がって隠し続けてきました。でも、そんな必要は無いんです。弱い部分は誰にだってあるんだから、そこは受け入れてしまった方が良い。受け入れる事から始まるんだ。理屈はわかりませんがそんな気持ちになりました。
そして父親が2つ私にお願いをしてきました、1つは【妻に直接謝る事】、2つめは【母親を悲しませない事】です。正直、妻に直接謝るのは嫌でした。これだけ酷い事をしておいて何をどう謝れば良いのか、言葉が全く出て来ません。でも、謝るしかない事は私も理解していました。
2,3日程度で地元へ戻ってきた私。空港では、親友の彼女と私の母親が待ってくれていました。あんな号泣されたのは初めてでした。どれだけ酷い事をしたのかというのが説教をされなくても理解できました。『死んじゃったかと思った』と目を腫らして私に寄り添う母親。それ以外の事は逆に何も言わずに、ただひたすら『良かった』と繰り返す母。真っ赤な目で無理して笑顔を作ろうとしている姿を見て、私が勝手に頑張ろうとしていただけで、母親からすればただ生きているだけで良いんだなって理解しました。
その足でそのまま妻の実家へ足を運びました。私の両親は車に乗ったままで私1人で妻の家の敷居をまたぎました。チャイムを鳴らすと玄関が開き、妻とそのご両親が顔をのぞかせました。部屋には上がらずに玄関の前で頭を下げました。溢れる涙を止められずに震える声で、あまり活舌良く謝罪が出来ませんでしたが『お嬢さんを幸せに出来ず申し訳ありません』と言葉を絞り出しました。
ぶん殴られる覚悟で謝罪しましたが、『早く病気を治して下さいね』と優しい言葉をかけてもらいました。妻はご両親の少し後ろで涙ぐんでいました。滞在時間はほんの数分。二度とこの家の敷居をまたぐ事が無いかもしれないと思いつつ彼女の家を後にしました。
その後は数ヶ月間、実家の寝室を守る自宅警備員の仕事につきました。ベッドの上の角っこで体育座りをしている時間が多かったです。また徐々に気力を取り戻しつつあった私は、今後の妻との生活を考え始めるようになり、妻を喫茶店に呼び出しました。私がやり直そうとしている事を伝えると、『ごめん。私は無理です』と返答がかえってきました。私さえやる気になって頑張れば妻は戻ってくる、そう思い込んでいたので、この返答には驚きました。よく考えれば当然の事ですよね。離婚届置いてきて、家出を2回。仕事も出来ない鬱病のニート。支えようにも勝手に居なくなってしまうから助けようがない。そんな奴ともう一度やり直そうなんて、仏様でも躊躇するレベルです。
まぁ、そもそも私の方から彼女に恋をして、半ば強引に結婚をしたような感じなんで、ふと冷静になってみたら彼女からしたら私の事などそこまで好きってわけでもなかったのかもしれません。(わかんないけど)
もうダメなんだな。そう頭ではわかっていながらも、『1ヶ月・・・もう1ヶ月だけ考えてみてくれないか』と結論を先延ばしにして喫茶店を去りましたが、結局1ヶ月後にも彼女の答えは変わらず離婚をする事になりました。
それから数ヶ月経って私はファミリーマートでアルバイトを始めました。30歳を過ぎて雨の中、自転車でコンビニに通勤するのは寒くて切なかったです。そこで貯めたお金で目を二重に整形して、コンプレックスを解消しました。失うものが何もない私は自分の顔を変える事になんの抵抗もありませんでした。
父親との約束だけは守る。『母親は悲しませない』という事だけを胸に、あとは全てを投げ捨てて自由に過ごしました。
それからまた数ヶ月、そろそろアルバイトは卒業して正社員にチャレンジしてみようかとインターネットで検索をしていると、ホームページ管理者を募集している会社を見つけました。丁度、私が持っているスキルが必要だったようで、面接をしただけですぐに入社が決まりました。そこはファッション関係の会社で特に女性物を取り扱っていました。正直ファッションには疎い方だったので心配でしたが、社長がめちゃくちゃ可愛いし、他のスタッフもエロくて可愛い子が多く、男性はほとんどいない会社だったので、これは天国かもしれないと思いました。
そしてここで私の現在の妻と出会う事になります。
入社してまもないある日、私はサングラスの検品を任されていました。目の前には10歳年下の同じく新入社員の女の子が居ました。比較的簡単な検品だったので他愛もない会話をしながら仕事をしていました。家はどこなのか?と聞かれたので『多分君が知らないところだよ。へんぴな村なんだ』と言うと『私もかなりへんぴなところですよ』と言ってきました。よくよく聞いてみると、私の実家からダッシュで5秒の距離に彼女の実家がありました。超ご近所です。しかも、実家の車の貸し駐車場も隣との事。車で30分以上かかる会社なのですが、よくもまぁ、たまたま同じタイミングでご近所さんが同じ会社に入社したもんです。これはかなり驚きました。そして、よくこのご近所で今まで出会わなかったなと思います。出会ってたのかもしれませんけどね。
それからは新人同士という事もあって、彼女と頻繁に居酒屋に行くようになりました。実家から徒歩数分のところに居酒屋があったので通いやすかったんです。しかもめっちゃくちゃ安いんですよ。2人でかなり飲んで食ってして5時間くらい居ても合計5000円を超えないです。しかも料理がまた美味しいんだ。今は大将が高齢で店じまいしちゃったんですけどね。
彼女とは10歳も年が離れていましたがジェネレーションギャップみたいなのはあまり感じませんでした。日を追うごとにどんどん仲良くなっていきました。ただ、私からすると妹のような存在でしたので恋愛感情は持っていませんでした。彼女にも彼氏が居ましたので、彼氏の愚痴や相談を受ける事も多かったです。この辺はライブチャットで培った、聞き出す能力が活きていましたね。
そんな生活が1、2年くらい経った時、居酒屋で私は『そんな彼氏は辞めた方が良い』と言ってしまいました。借金をしていたり、浮気をしていたり、あまりにも酷い振る舞いをする彼氏の話を聞いて、私もさすがにフォローする言葉が出てこなくなり、『誰と付き合っても良いけど、その彼は辞めた方が良い』と口を出してしまいました。
そのあたりからでしょうか。居酒屋からの帰りで、なぜか酔った勢いで車の中でエッチをするようになりました。なんかこれじゃ彼氏を蹴落として私が横取りするような感じになってますよね。まぁ実際そうなんですけどちょっと格好悪い気もします。
それはそうと、彼女の中でも私の存在が大きくなってきたようで、彼氏とは別れると言い始めました。さらに、私と付き合いたいという事も言ってくれました。ただ、私は彼女が欲しいわけではなかったので申し出を断りました。何しろ、私の中ではまだ大きな罪悪感があったんです。結婚する程に惚れて愛した1人の女性を、自ら深く傷つけた経験がある私は、今後は他の女性と結婚はしない方が良い。彼女だって作らない方が良い。そう思って生きてきました。エッチをしてしまった時点で中途半端な行動ではありますが、彼女を作る事には非常に抵抗がありました。まぁ、そもそもその子はあまり私のタイプではなかったというのもあります。(オイ)
でも現在、私の妻はその彼女です。
私は彼女を遠ざけて居て、一定の距離感を保っていたのですが、彼女はそんな事お構いもせずにグイグイと距離を縮めてこようとします。付き合ってくれと何度も何度も言われてさすがの私も折れました。『今は君に恋をしているかはわからない。多分loveじゃなくてlikeだと思うけどそれでいいか?』と聞くと、それでも良いと嬉しそうにしていました。
なかなか最初の頃は酷い扱いをしていたと思います。それでも健気についてきてくれる彼女に次第に恋愛感情というのか、守ってあげあげたくなるような感覚を持つようになりました。一緒にいると楽だな。素直な自分で居られるなと思うようになり、結婚を意識するようになってきました。
ただ、このあたりから仕事が嫌になりはじめました。上司が無口で怖かったので生理的にキツかったんです。数少ない男性のちょいマッチョな上司です。他のダメなスタッフには怒らないのに、私には結構キツい口調で威圧してくるんです。上司がダメな部下を叱らないで誰が叱るんですか!?『俺は仕事ができる人間にしか怒らない。ダメな奴に何言っても時間の無駄』と言う上司に腹が立ちました。そこを頑張って怒るのがお前の仕事じゃねーのか!?ってね。
ホームページの管理をしながらもお問い合わせ全般の責任者にまでなってしまった私。部下が怒らせてしまったお客さんの対応をするのも全部私です。上司からの威圧と、お客さんからの怒号で徐々にメンタルを削られていった私は、入社して4年でまたしてもバックレをしてしまうのでした。
会社を辞めてからは非常に悩みました。いくら仕事を変えても結局最後はメンタルをやられてバックレてしまう。もう私も30過ぎでこのまま同じことを繰り返していたら未来は無い。ここらへんで何か考え方をガラっと変えなきゃダメだ。と自問自答の日々がまた始まりました。
そこで手を出してみたのが、営業職です。今までは事務仕事が多かったのですが、逆に自分の苦手な営業職。しかも、工事の監督を兼ねた営業です。ファッション関係のきらびやかな環境とは打って変わって、泥臭く汗臭い環境です。このくらい今までと違った事をしないと何も変わらないと思いチャレンジしてみました。
しかし、長くは続きませんでした。6~8月の炎天下の中、工事現場で見習いとして作業をしながら、営業周りもするというのは思った以上に過酷なものでした。工事には高所作業もあって、命の危険を感じる事も度々ありました。現場の作業員をまとめる仕事だったのですが、作業員も口調が荒い人が多く、とても私のような事務職あがりの温室育ちには管理出来ない人たちだったんです。数ヶ月経つと作業員ともある程度仲良くなってきたりもしましたが、やはりこれだけ危険でキツい仕事を一生続けられるかと思うと、全然無理としか思えませんでした。残念ながら3ヶ月で現場の仕事を辞めてまたしてもニートに逆戻りしました。
結局、事務仕事だろうが、営業だろうが、現場だろうが、何をやっても続けられる気がしない。ニートで貯金もあまり無いのにFXに手を出して30万くらい持っていかれたりもしました。母親に頭を下げてお金を貸してもらいました。私の人生に明るい未来はない。でも母を悲しませない為に死ぬわけにはいかない。どうすれば良いんだ。
そんな崖っぷちに追い込まれた私に、いよいよ転機が訪れます。
彼女からある提案をされました。『メンタルクリニックに行ってみない?』との事。精神科の病院とは違うようで、有料で悩みを相談したりできるところが近所にあるという事でした。ハッキリ言ってそんなものには意味が無いと思ってしまいましたが、『私がお金を出すから』と言われて、そこまで行って欲しいんだったら1度だけ行ってみようと足を運んでみました。(お金は自分で出しました)
そこへ行くと、ちょっとした集合住宅のようなところで、その一角にクリニックがある感じでした。中に入ると40歳半ばくらいの女性出迎えてくれました。この方が相談相手の先生なようです。1時間5000円という事で前金でお支払いして、個室に通されました。小さなテーブルと椅子が2つある6畳くらいの部屋でした。
先生から話を聞くと、実は彼女が既に1度ここを訪れていたそうです。相談内容は自分の事ではなく私の事。会社をすぐに辞めてしまう彼氏が居るのだが、どうすれば良いだろうか?という相談をしたところ、変わりたい気持ちが彼にあるのならその彼氏をここに連れて来な。と言われたそうで、私が今ここに居るらしい。
何から話をすれば良いのかわからなかったが、今までどんな職場で働き、どんな人生を送ってきたのかを話していきました。そこで先生から言われた事が私の人生を大きく変える事になったのです。
まず1つは『あなたは父親が怖かったから、常に怒らせないようにアンテナを張り続けるクセがついたんだね。だから人の感情とかを敏感に感じ取るようになっている。上司が1のレベルで怒っていたとしても、あなたのアンテナでは10怒っているように受け取ってしまう。』との事だった。
確かに、言われてみればその通りだと思った。人の顔色を見て機嫌が良いのか悪いのかも判断してしまう。眉毛がピクっと動いたり、少し貧乏ゆすりをしてたり、そういったちょっとした動きだけでも何かを勝手に感じ取ってしまう。だから、少しでも怖い態度をされるとメンタルがボロボロになってしまう。これは長所でもあるけど今の私にとっては欠点として働いているようだった。
そして2つめに言われた事は『背負っているものを全部一度捨てなさい』という事。しかし、私は妻と離婚をして、仕事もしていない、背負っている物なんて何もないじゃないかと思い、懐疑的な顔をして先生を見ていた。すると『あなたが大切なものはなに?』と言われたので、『まずは親は悲しませたくないので一緒に住んでいます、あと彼女も出来れば幸せにしたい。あと、友達も心の助けになってくれたし大切です』と言うと・・・
『それを全部捨てなさい』
と、驚愕の教えを叩き込んできたのです。
大切な物を全部捨てろっていうのか?いや、何を言ってるんだコイツは。と一瞬ビックリしましたが。その意味を理解するのにあまり時間はかかりませんでした。それまで先生に『何をしたいですか?』と聞かれた時に何も答えられなかったのだが、背負っている物全てを捨てて、まっさらな自分1人だけの欲望の為に動いて良いとわかった時に改めて『何がしたいのか?』を考えてみると、自然と何個かやりたいことが浮かんできたのだ。
『あなたの人生は全部あなたの物なんだから、誰になんと言われようと関係ないんですよ。あなたが不幸せな人生を歩んだら親が責任を取ってくれるんですか?親の顔色を窺う必要は無いんです。彼女の為に何かをやろうとしなくて良いんです。まずは自分が1人立ちをする事だけを考えませんか?それまで彼女に支えて貰えばいいじゃない。』
こんな感じの言葉が私に突き刺さった。今までは自分に力が無いのに誰かを助けようとしていた気がする。まずは自分が力をつけて余裕が生まれた時に他人に力を貸すべきじゃないのか?これまでずっと恰好付けすぎていたんだと思った。
続けて先生は言った。『あなたは親の為に実家に居ると言っていましたがそれは逆効果です。今、父親と母親は大切な時期にあります。あなたが家を離れて、2人きりになって60歳以降の老後の関係性を作る大切な時期です。それをあなたが居る事で関係を作るのを邪魔しています。あなたのご両親はまだ子離れ出来てないんです。あなたは家を出なさい。出来るだけ早く。』
これには衝撃を覚えました。まさか良かれと思って一緒に居た事が逆に迷惑だったとは。今まで思っていた私の価値観のほとんどが一気に崩れ去ったような気がしました。
もう何が正しくて、何が間違っているのかわからなくなっていました。でも、この話を聞いて正解があるとしたら、それは自分以外の人が考えてる気持ち、本心なんて確認しようがないという事。その反面、自分がやりたいと思ってやった事は失敗したとしても自分にとってはプラスなので間違ってはいないという事です。他の人がどう思うかはわかりません。そして、それを確認する術もないんです。人の本心なんて言葉だけでは語れませんし、他人が何を考えているかなんて考えてたらキリがありません。そしてそこに正解はありません。だったら唯一の正解である自分の意志に従う事をやっていった方が良いんじゃないかと思いました。
自分の人生の責任なんて誰も取ってくれない。だったら自分が思った、やりたい事をやって後悔だけはしたくない。やりたい事をやってそれでもダメだったら別にそれで人生が終わったって良いじゃないか!先生との会話が終わるまでにそこまで考えるようになっていました。
早くも自分以外のものを全て捨てる決心をした私は、両親や彼女に話をしました。両親は比較的賛成をしてくれましたが、彼女は驚いていました。彼女としては仕事を長続きさせる秘訣を教えて欲しかっただけなのに、まさか全てを捨てるなんて事になるとは思ってなかったんでしょう。しかも、引っ越し先は料金が安いところが良かったので、なぜか遥か遠方の地に移住するつもりでした。『私と別れるって事?』と涙ぐみながら彼女は聞いてきました。それも仕方がないと思っていたのですが、彼女が『近所にすごく安い物件あるけど』と言って来ました。もうテンションがおかしくなっていたのか、灯台下暗しというのか、まさか超ご近所に、ボロッボロの1ヶ月2万円の格安アパートがあったんです。
結局私は彼女とは別れる事なくその格安アパートに引っ越す事になりました。引っ越しの前日になぜかしょうもない事で父親とケンカになり、私は産まれて初めて父親を怒鳴りつけました。むしろケンカをした事自体が初めてだったと思います。明らかに父親が悪い内容だと思ったので、向こうから謝って来ないようなら私は引っ越しを機に縁を切るつもりでいましたが、父親が私の彼女に『謝りたいからこっち来てくれないか。って伝えて下さい』とメールをしてきて、仲直りをする事が出来ました。
今までだったら父親の理不尽な話にも、ヘラヘラと笑ってやりすごしていたのですが、先生と出会って話を聞いてからはなぜか自分の気持ちを素直に開放できるようになってきました。たぶんこれから性格がガラっと変わるんだろうなという実感がありました。
引っ越しをしてからというもの、自分がこれまで培ってきた経験を活かしてホームページ作成の仕事ををし始めました。友人から仕事を貰ったり、自分から営業をかけたりして、ヘタクソながらにもがむしゃらにやりました。パソコン用のデスクも無かったので、押入れの上段にモニターを入れて下段に椅子を配置してやっていましたが、案外仕事はやりやすかったです。(苦笑)
パソコンと布団以外の物は持っていかずに、ただひたすら仕事を出来る環境にしました。唯一の娯楽は少量のお酒とインスタントラーメンをお湯に入れずに砕いておつまみにして食べていた事です。自分の好きなタイミングで寝て好きな時に仕事をする。これが思いのほか自分のサイクルに合っている事を知りました。やっぱり強制されて仕事するよりも、自分がやりたいと思った時が一番集中できるんですよね。生活リズムについてイチイチうるさく言ってくる人間も居ませんから、自由にやりたい放題です。
ただ、さすがに数ヶ月貧乏生活を続けていると、インスタントラーメンを体が拒絶するようになってきました。今までそんな事思った事無いのに、インスタントラーメンをマズイと感じるようになったんです。さすがにずっと3食同じじゃヤバイかーと、人間の限界のようなものも少し発見できたりして、辛いながらも楽しかったです。
さすがは2万円のアパートということで、お菓子の食べ残しをテーブルに置いておくと、ものの数分でアリの大群が押し寄せてきて綺麗さっぱり回収されちゃうのも驚きました。木工用ボンドとかアロンアルファなどでアリの出所を潰したりするんですが、どこからともなく現れてきます。もう穴だらけなんですよね。雨漏りしなかっただけマシです。
洗濯機もなかったので、風呂桶を使って手揉みで洗濯をしていました。軽くモミモミするだけでお湯が灰色になってきて服の汚れってこんなに落ちるんだと感動しました。でも、いかんせん洗濯機は無いと不便ですね。脱水がマジでめんどいです。1つ1つ手で絞ってくんですが最後の方は握力が足りなくてプルプルします。これ男性の私でもこうなんで女性じゃもっとキツいでしょうね。
このアパートの最大の難所は、部屋を出てすぐに真上にあるアシナガバチの巣です。排気口の中に巣を作ってしまっているので簡単には手が出せません。私は2階に住んでいたのですが、1階に降りるためには端にある階段を使う必要があります。しかしそこには大量のアシナガバチ。階段に行くまでに最低でも6匹はホバリングしている状況。ただでさえ虫が苦手だというのに、ハチの大群って無理ですよ。ハチのご機嫌を伺いながらスーパーに買い出しに行く必要がある格安アパートです。
家賃の払い込みも銀行引き落としができないから直接大家さんに払いに行かないといけない。常に危険と隣り合わせな生活です。
さらにコウモリまで飛び交っているので、車を駐車しておくと1晩でウンコまみれにされてしまいます。ここに前に住んでいた人はたぶん吸血鬼です。そうじゃなきゃ説明が出来ない。
とまぁ、そんなジュラシックパーク的なアパートに半年くらい住まわせてもらいました。その後は徐々に収入も安定してきて彼女と一緒に同棲をする事になり、一時期月収が100万円を超える事もあり、タワーマンションの21階に住んだりもしました。(すぐ引っ越しましたけどね)
彼女と結婚をするのは100万円の月収を達成してからだ!と勝手にルールを作っていたので、それを達成して彼女のご両親にご挨拶に行き、結婚をさせて頂く事になりました。
今ではアルバイトくらいのお給料しか稼げていないので生活ギリギリになってしまっていますが、それでも毎日自分がやりたい事をやって生活出来ているので満足しています。妻も私の仕事を理解してくれていますし、私の弱いところもわかった上で一緒に居てくれているので、心の支えになってくれています。私がこの仕事を始める前に妻が『私があなたを養う!ちょっとお金を稼いでくれるペットだと思えば凄い良いじゃん!』とバカな事を本気で言っていました。今でもきっとその気持ちは変わらないんでしょう。
自分で言うのもなんですが、そこそこ壮絶な人生を送ってきているんじゃないかなと思います。死にたいと思った事も何度もありました。自分に自信が無い人生でした。しかし、今は嫌な悩みも無く自分の事を大好きになって、心の底から生きたいと思えるようになりました。昔は恐く無かった雷も、今では万が一にも雷で死にたくないと思いとても怖いです。精神的に追い詰められている方は是非、自分が楽しいと思う事をやりましょう!何を捨ててでも楽しい事をやってしまいましょう!そう今から!今すぐに新しい自分の人生を突き進むのです!(宗教っぽいな)
ここに至るまでにいろいろな事がありました。何が正しかったか、何が違ったのか。それは未だにわかりませんが、少なくとも1つ言えるのは、これまで経験してきた全ての事が今の自分を作っているという事です。そこに無駄なものは一切ありません。ライブチャットを経験した事もそうです。これがなかったら今でもずっと会話力が低いままで、自信が持てない自分から抜け出すのに時間が掛かったでしょう。
っていうか、アダルトライブチャットがこんなにエロいとは思いませんでした。
なにはともあれ!ビビっている暇があったら、悩んでいる時間があるのならまずは行動!これが人を成長させる、自分の人生を最高のものにする一番の近道ではないかと思います。
さて、なんか強引に綺麗にまとめたりして、ザっと駆け足で私の人生をお話してきましたが、結構な長文になっていると思うので、ここまで読み進めている方はきっと居ないと思います。(笑)
もし、居たら・・・
ありがとうございます!><
ちゅーわけで、結局私が何を言いたいかと言うと。
ライブチャットは楽しいからやろうぜ!って事!(むっちゃ強引)
DXLIVEがおすすめだぜ!(笑)